「生きる」に目指すものは?
「人生100年」と言われる時代に、それぞれの人生のその生き方に「生きる」にあったって目指すものがあるとすれば、それはどのような概念またはカテゴリーに組み込まれるものだろう?
それは、「勝つ」ことなだろうか?
自分の生き置かれた職域、あるいは社会性の中で「勝つ」こと。
それが目指すに値するものなのだろうか?
「勝利する」ことなのだろうか? 一昔前、民主党の蓮舫議員がその発言を追及された「一番じゃないとダメですか?」「二番じゃいけないんでしょうか?」のあのフレーズ。
それなりの地位を得、評価を受け、名声をあびることが目指すべきことなのだろうか?
それらはいずれも『否(いな)‼』であろうと私は考える。
これはあくまでも、30年来カウンセラーとして心理的な世界に関わって来た精神面からの人生観の一つとしての考えだ。
名声、評価は、確かに一時的には満足感を覚え、心地よさを与えてくれる。
しかし、それらは一時(いっとき)のものであり、平穏に心を満たすものではない。
むしろそれらは、さらなる次の目標に向けて、次のその獲得と固辞の為に果て無き葛藤に急き立てられ、平穏な心からは程遠いものとなる。
あくまでも私の個人的な考えではあるが、100年という時間の枠組みをも含めて思い巡らせてみる時に、人生の道程で目指すに値する生き方は、恐らく成功者を目指す生き方ではないような気がする。
そうではなく、「価値ある存在」になることではないかと・・・。
何処の地の、いつの時代に生きようと、人は誰もがその人としてそこに存在している時点ですでに特別な人であり、誰にも置き換えることの出来ない特別な存在である。
その人でなければ出来ないことがあり、その人だからこそ出来ることがある。
親と子の関係にしても正しくそうであり、親を必要とする子にとって、その在りようは、子の生涯に繋がる人格形成の基盤をなすところに関わる重要な時間であり、役割がある。
価値に大小はない。
価値は、競うものではない。
価値は、代え難いものであるところに存在する。
よって、私の極々個人的結論として、人生の目指すに値するものがあるとすれば、それは、『俗にいう勝ち組の成功者を目指すことではなく、価値ある人になること』ではないかと考えている。
その人がその人としての与えられた命に応えて、存在意味を感じつつ、そもそもが特別な自分であることを深く覚え、自分の花を咲かせること。
自分にしか咲かせる事の出来ないない花を 人はそれぞれに皆持っているのだら。。。。。
馬屋原先生、いつもご指導をありがとうございます。目指すべきは『誰かと競って勝つ』ことではなく、自分の花を咲かせる=自分なり価値ある人になること
なのですね。
そう考えると気持ちが楽になりますね。
佐藤様、コメントありがとうございます。
私が日頃考えたり感じたりしていることを、つぶやいているだけです。
ご指導なんてもんじゃないですから、皆様も気軽にコメント・つぶやきをご投稿ください。
コミュニティの輪が広がっていくことを願っています。