一つの年号が終わる頃に
「時間」って何だろう? フト考える…。…いいえ、しばしば考える。
大正、昭和、平成と日本独自の年号と共に引き継がれてきたセンバツ高校野球が始まった。
日本には現在たくさんのスポーツが生まれ、愛好者もたくさんいるが、中でも「野球」は
本当に多くの日本人に愛され、復興や逆境の折に触れて人々を勇気づけてきた歴史がある。
先日、引退声明をしたイチローも、松井も、マー君も、大谷も、皆みんな甲子園から巣立って行った。
人は誰も、自分の人生の時間軸の中で、表舞台には立てないながらも確かに生き続け、次に来る波に乗るため、そのチャンスを素直に掴める力を培うための時間を過ごす時期がある。
それは、正しく引退会見でイチローが語った彼にとってのこの一年の時間だったに違いない。
表舞台に立てない時間をどのように過ごすかが、この「溜め」の時間、「待ち」の時間は、忍耐という耐え忍びの時間であると同時に、自身の内側を真に豊かに育て上げる時間でもあろう。
「時間」は、あらゆる人に公平に与えられたものである。
公平に与えられたはずの「時間」が、取りも直さず、その人を「人」として結果的に彩る。
ここ最近、同じ野球界で引退した人物に「イチロー」とカープの「新井」選手がいる。
愛され尊敬されたふたりだが、その愛され方、その眼差しには似て非なるものがある。
常に刀の刃を研ぎ澄ますようにストイックにルーティンを徹底させ、自身を磨き上げて日々刻々を過ごしたイチローと、愚直なまでにアナログ的に汗と泥にまみれて走り込み、修行僧のように護摩行に立ち向った新井の姿は、多くの人たちを感動させ、勇気づけたとしても何か違う匂いを感じてしまうのは、私だけではないはずだ。
いずれにしても、それらすべてが、見えない「想い」を発露としていることは確かだ。