漬け物石の有効性
その昔、日本の多くの家庭でその家独自の味のお漬け物を作っていた頃、其々の家庭には、美味しいお漬け物を作るための重い漬け物石がありました。そのうち、お漬け物にも様々な漬け方や味付けが生まれ、お手軽な一夜漬けが主流になってくると、重い大きな漬け物石はいつしか姿を消していきました。
あの重い大きな石は、漬け物の最終段階で十分水分を出し切り、味を調える為に必要なものだったそうです。
時が移り、場を変えて考えてみる時、どんな業界にも残骸のように居続ける「漬け物石」にも似たあの重くて硬い存在は、次への発展成長を止めているようにさえ映ります。
入学式は、なぜめでたいのか? そう、確かにおめでたいことはおめでたいのですが。
それは、誰にとって?
長々しい来賓の祝辞、地域の選挙活動の一端を担うような、訳のわかんない(中学生や小学生、幼稚園児たちにとって)型にはまった心も熱もない言葉。あれって、いつまで式典の形式の中に残すつもりなんでしょうか???
政治家の体質、劣化した閣僚の姿は、無用な漬け物石にも劣る在りように感じます。
存在は、有効性があってこそ。 存在価値は形ではなく、必要とされ他に役立ってこそ。
漬け物石の為に漬け物石が自己主張しても始まらず、自分の役に留まりたいが為に形骸化した無用な重しで、次世代の人材を押さえ込んではなりません。
美味しくないお漬け物には、人が手を出さないのでリアルに残り、美味しいものは誰もが食べたがります。うっとおしいだけの存在に自分自身を落とし込んでしまっては、それまで、せっかく自分が成し遂げてきた幾ばくかの努力功績さえも自らが腐らせてしまうコトになるような気がします。。。。。が、如何でしょうか???
漬け物石は誰かが片付けてくれますが、「人」は、自らがその引き際を処さなければ、醜くしがみ付く哀れな姿を晒すだけでなく、未来への重しとなり、次世代に続く未来を閉ざし、次世代の人たちの意気込み意欲さえをも、腐らしかねません。
組織の在り方、しきたりの中には、残すべきものと変えていくべきものがあるように感じられてなりません。
やがて来る新元号を前に、守るものと変化させるもの、受け継ぐべきものと一新させるものを、今一度しっかりと見極めることが必要ではないかと考えています。