「基本的人権」の曖昧さ
私は憲法・法律に関して明るくない。
ただ何となく知っている程度だから厄介なのかもしれない。
「基本的人権」、この言葉にニュアンス的誤解を抱いているかもしれない。
が! が! が、…それにしても!である。
どうも最近、弱者(?)と呼ばれる人たちの傍若無人な発言と行動は、目に余る。
私も高齢者だから言いやすいのだが、高齢者はワンマンすぎる。
自転車では前後左右も見ないで、勝手に信号無視で道を横切る。
オラが天下!と、言わんばかりだ。
都合よく「年寄なもんですから…」と我がまま放題を言う。
有無を言わさず天引きされる若者労働者からの年金は、今後どうなる?
事実、30-40代の人たちは、半ば諦めムードで明るい将来展望もないままに働いている人が大勢いる。
実際、長らく掛けてきた高齢者の年金はどんどん引き下げられ、生活保護者の受取額以下になっている人さえある。
明らかに暴力的な行き過ぎた指導方法もあるにせよ、当事者や組織の為に、必要と感じて、部下や後継者へ向ける指導育成のあり方も、受け止め方一つでは、パワハラ問題に引っかかり、訴えられることさえある。
揚げ足取りに長けている人にかかれば、発言の言葉もSNSで袋叩きに合ってしまうありさまだ。
借りたものを返さない方の人が、「返せないのに返せ」と迫ると、貸した人を訴える。
全体主義に偏った反省の想いを込めて、新たな人権概念として生み出されたはずの我が国の「基本的人権」は、個人の尊重を力説するあまり、本来の人道上的倫理観、道徳観が薄らぎ、言ったもん勝ち! 貰ったもん勝ち! 摂・取・獲・盗ったもん勝ち! みたいな状況になりりつつあることは、忌々しき状況だと感じる。
労働力不足の陰に、百万人単位での中高年の引きこもりがある。
この問題に対しても、私は10年以上前から声を上げてきた。
さまざまな要因から引きこもることは誰にもある。しかし抜け出せるきっかけも同時に用意されている。高齢化した親が、抱えきれなくなって初めてその数字が明るみに出ただけのことだ。
社会との接点を持たないままに生涯を終えることは、人間として世に生を受けながら、何と悲しいことか。
社会に出ることによって、傷つくこともある。苦しいことも、悔しいことも、情けないことも、辛いことも、惨めに感じることだってある。
いいじゃないかそんなこと!
誰だってそうなんだ!
優しい人もいるよ。
助けてくれる人、情けの深い人にだって出会うかもしれない。
だからこそ、感激も感動もあるんだ。
しみじみ心が温まるんだ。
生活保護でお金だけ与えたとしても「人間」としての本来の喜びを味合わせない「基本的人権」の為の物質的な供給のみのあり方は、私には納得できない。
自分の人生を「生きたい」と願う人、真面目に働いている人が報われる、公平感のある「基本的人権」について、皆で今一度考えなおしてみたいと願うばかりである。