「ことば」について(7)「わたし」は 私
「ことば」によって紡がれてゆく「自我」。
自分が自分だと思い込んでいる「自分」。
何時、何処で、誰と居ようと、絶えず離れがたい「わたし」。
「わたし」は「私」として一瞬たりとも「わたし」を離れない。
それは、心身一如にして、いかなる時も「わたし」であり続ける。
では、その「わたし」、その「自分」を如何に在らせるか。
自分のことを「自分」のこととして、自分で見つめる習慣。
誰かの言葉を鵜吞みにしない。
根拠なく丸呑みしない。
言葉だけをなぞり、上滑りな納得をしない。
聞き流し、読み流しで、知ったつもりにならない。
しっかり「傾聴」し、本質を探るに努め、自分の腹に落とし込む。
他人の考え、他人の意見は、その人(他人)のもの。
自分の意思はどうなのか。。。。。
だから…「わたしは、こう考える」
それでも…「わたしは、こう考える」
「わたし」は私以外の何ものでもない。
例え今の「わたし」、今の「自分」を、好きであろうとなかろうと。
詩人 谷川俊太郎氏の詩を載せたい …
何ものにも、
何ごとにも出逢いたくないと思っても、
わたしは私を避けることが出来ない。
めざめれば私は私に逢う。
谷川俊太郎『問う言葉 答える言葉』より