自己理解から始めましょうか
「自分」について理解を深めると言うことは、
「自己概念」として、
自分で自分のことを決めつける事とは当然ながら全く違います。
自分で自分のことを分かったような気にならないコト。
自分のことが実は最も分かりにくいことだからです。
どんなに避けようとしても、自分のために用意されていた
自分だけの自分のための人生の問題集から、
私たちは逃れることは出来ません。
次々に襲い掛かるように思える数々の難題や問題を前にして、
「なんで?」「どうして?」「まさか私が…?」と、
いくら考えても答えは見つかりません。
起きたことは起きたのですから。
在ることはあるのですから。
生じた事象を、ありのままに、ただそのままに見るためには、
自己理解の道が不可欠であろうと考えています。
そして、
それは最も困難な道程の一つです。
自分自身を知るということは、
座禅を組み、独り閉ざされ、沈思黙考することではありません。
内に向かって、内観を深めることは、
関係から身を閉ざして、引き籠って行う行為ではありません。
書物を通じての自己理解を求めたとしても、
それは、自己理解に到るための一つのプロセスに過ぎません。
厳しいかも知れないけれど、
逃げ出したいかもしれないけれど、
苦しくて苦しくて到底納得できないことかもしれないけれど、
自分自身を知るためには、人と人との交わりの中で以外には、
肝心で厄介な「自分自身」を見つけることが出来ないのです。
他者との関係性に身を置いてより他には、「自己理解への道」
その入り口にさえ、手をかけられないような気がしています。
「自分自身の正体」は、関係の中にこそ見つけ出すことが出来るのです。
それは、時に苦しく、辛く、情けなく、悔しく、
腹立たしさに押し潰されそうになったとしても、
社会、学校、職場、夫婦、恋人、友人、親子、兄弟姉妹、
あらゆるすべての関係においてです。
眼や耳や思考をただ単に外に向けるのでなく、
それらの関係性の中で、自分がどのように反応しているのか、
それらが、自分の内側の何処をどのように刺激し、
それによって自分がどんな対応をしているのか、
その時の自分に生じる反応の仕方にこそ、
自己理解の糸口は潜んでいます。
その為には、自分の思考の偏り、思い込みを脇に置いて、
心の湖面を素早くフラットに戻し、自分の感情の変化に対して、
知覚の鋭敏さを育てることが必要となります。
いつの時にも
「行」ギョウ(他者との関係の中で現実社会で生きるコト)
「学」ガク(人間の背景を理論から学ぶコト)
この『行・学二道』の道を歩み続けること、
この両輪を併せ持って生きることが自己理解を深め、
何よりも、
自分と自分に繋がる人々の人生を豊かにしてくれるのではないかと
考えています。
『学び』は、一生です。
『学び』には、定年もありません。
『学び』は楽しく興味深く、人生を飽きさせることがありません。