平時に弛まず研鑽を積む、育てた精神性こそが備蓄力
ついにWHOがパンデミック宣言をしてしまいました。
この度の手ごわい相手は、未だ得体の知れない新型ウィルスですが、これが、自然災害であっても、
予想だにしなかったテロであったとしても、私はこれこそが人生だと常々考えています。
人生に有事はつきものです。
有事の時は、不意に訪れます。
個人的にいえば、自分自身の身に、愛する家族の身に、それは突然のように現れて衝撃を与えます。
だからこそ、平時の時を如何に過ごすのか?
己の内に何を育て、何を蓄えるべく研鑽を積み、精進するのか?が 問われます。
私は何も、国家政府を相手取って恨みつらみを愚痴っているわけではありません。
自分の立場、役割の責任を感じないままに、平時をノー天気にボーっと浮かれて過ごしていたとしても、有事の危機は絶えずその影を潜めているという、この世の掟を無視はできないのですから。
口先だけのリスク管理では、一旦事あらば化けの皮は剝れてしまうということです。
金欲物欲的に物資だけを溜め込んだところで、精神性の軟弱な環境では奪略謀略が起こるだけです。国民一億二千万人の生活と命を預かる立場にある者としての自覚は、明らかに欠如しています。
自らが進んで立候補し「お願いします」と頼み込んだ挙句に、国民の血税を預かり国民の為に活用すべきその財産を、自分の身勝手な地位と権力闘争の為にたくし込んでみるだけで、国民には正当に還元されていません。
円滑な組織体制、より高度な専門性、その潤滑油となるべく各人の人間性とも言うべく成熟度。
知識が無いから当然の如く知恵も出ず、今更のように国民の批判の声に過剰反応して狼狽える始末。
何一つとっても、現在の日本の政治屋の姿はお粗末極まりありません。他者評価を気にしての場当たり的なパフォーマンスに、結局は国民が翻弄されることとなるだけです。
だからこそ、私たちは自ら一人一人が、自身の内に幾らかでもしっかりとした精神性支柱を立てなければならないのです。
現実を前に、可視化できる確かな事実を探り、それを基に感情的でない行動を取りましょう。
時代がどれ程混乱したとしても、自分の人生は自分のものです。
時代性という大きな渦の中では、抗えないこともあるでしょう。
それでも、それでもです。
自分の人生を明け渡さない。噂になんか翻弄されない。妄想に明け暮れたりしない。
自分で考え、自分で選択し、自分の判断で行動する、
その自由だけは、今まだ、かろうじてこの国には残されているのですから。