主語のない「気づき」
長い間カウンセリングの世界に身を置いて、近頃考えていることがあります。
「気づく」とか「理解する」ことを大事として
様々な角度からアプローチをかけ、それに促すとしても、
果たしてその『自分(私)』と呼ぶものはそもそも何者なのか?と。
「気づき」の主体となる『自分』こそが最も重要な課題ではないかと。
心理学やカウンセリング学の世界では統合された自我を良しとし、
「健全な自我状態」で「気づき」に到り自己理解することを目指します。
しかし、
そこにこそ見逃してしまう「隠れた『自分(自我)』」が有るということを
承知していなければ、所詮は『自分』が意識したり分析したりしているに過ぎません。
思考者と思考は一体であり、思考者それ自体が思考の産物である、と、
提言した人がいました。
思考者である『自分(私)』が思考をいくらうまくコントロールしようとしても、
そうしようとする主体が常に不安や怒り、恐怖や混乱にさらされており、
危うい心理状態である時、真なる気づきや理解にいたることは可能ではないでしょう。
インド出身でアメリカ人医師として活躍していた人が、
『脳の中の幽霊』という本の中で興味深いことを語っていました。
各個人の、個々が抱える脳、
その脳の中の幽霊こそが、
「私」が「わたし」として『自分(自我)』と
呼んでいるものであり、それは自他を区別し、
私がそのように考え、私が感じ、私が苛立ち、憎み、怒る。
……、この時生じるそれらの現象が自分を取り巻く周辺の様々な場面で、
世界中で表面化している望ましくない事件なのでしょう。
未熟で偏った『自分(私)』の「脳に住みつく幽霊」が、
諸悪の根源になっている、とするならば、
それを洞察し、そこから離脱しなければ、どれ程大量の知識を得ようとも、
瞬時にして『脳の中の幽霊』に飲み込まれてしまうでしょう。
だから、争い事、戦争、無用な殺戮と云う愚かで情けない歴史が繰り返されるのです。
ロシアのウクライナ攻撃が始まって1カ月が過ぎました。
今、この地球を破壊し、人類を滅ぼしてしまえる可能性、その力、権力は、
たった二人の人物に委ねられているのかも知れません。
深くを学び、意識人格としての「自分」を明け渡す行為の後、
人は初めて主語のない「気づき」を一瞬でも体験できるかも知れません。